野球

2017年1月25日 (水)

第15回 元阪神・藤田太陽さん

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新屋高 → 川鉄千葉 → 阪神 → 西武 → ヤクルト

高校卒業後、社会人野球・川崎製鉄千葉に入社。2年目の99年に頭角を現し、第14回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、大会では最優秀防御率賞に輝き日本の3位入賞に貢献。00年のドラフト会議で阪神を逆指名しての1位指名で入団。02年にプロ初勝利初完投を記録し、03年から開幕ローテーション入り。09年に西武へ移籍し中継ぎ、抑えとして西武リリーフ投手陣の中心として活躍。13年、東京ヤクルトスワローズに移籍するも、同年現役引退。15年、富山県のクラブチーム・ロキテクノベースボールクラブで投手兼任コーチとして現役復帰。


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厳しくも無条件に応援し、味方になってくれる父と歩みながら、常に自分というものを見つめ、自分に最適な道を歩こうとしてきた藤田太陽さん。背伸びをしたくなる時こそ、しっかりと地に足をつけて粘り強く戦ってきたからこそつかんだドラフト1位の座。体が小さい、スムーズに習得できない、思うようにプレーできない……と、野球が大好きだけど悩みを持つすべての人へ送る、貴重なサクセスストーリーをお聞きしました。


大好きだった柔道を辞めて野球選手になった日

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小学3年生までは、柔道とレスリングに夢中でした。憧れの人は柔道でロサンゼルスオリンピック、金メダリストの山下泰裕さん。夢はオリンピックに出て柔道で金メダルを獲ること。そんな柔道一直線の私に、ある時野球好きの父から「野球をやってみないか」という相談があったのです。正直、興味があるのは柔道。父の熱烈でしつこい言葉攻めに「とりあえず練習だけでも行ってみるか」という気軽な気持ちで小学校の野球チームに参加してみることにしました。

見様見真似で動いてみたところ、思ったよりも良い球が投げられるし良いバッティングが出来る事が判明。柔道のおかげなのか、関節が柔らかく肩が強かったせいなのか、抵抗なく野球というスポーツを楽しいと感じるようになっていきました。そんな私の様子を見てか、父から要望があったからか、チームの監督から「関節の柔らかさと肩の強さを柔道より野球で生かしたほうが良い」と言われ、半ば強引に私の野球人生がスタートした瞬間でした。

最強のコーチであり最大のサポーターになってくれた父

小学校の学童野球チームは物凄く強く、チームの中心選手にはなれませんでした。肩が強いという事でポジションはセンターかライト、打順は6番か7番。体も小さく6年生で155cmくらいでした。そんな状況ですからプロ野球選手になりたいという現実離れした思いを持つ事は無く、将来は消防士になりたいと思っていました。しかし、父だけは違いました。いつどんな時も私の事を信じ「お前は絶対プロ野球選手になる!」と言って、毎日休まず練習に付き合ってくれました。

朝5時半に起きて8キロを走る。朝食を山盛り食べた後は学校そして練習。帰宅したら素振りとシャドースロー、もも上げ2000回。父の仕事が終わり帰宅すると、夜の練習をするという毎日。バッティングセンターにも週4で通っていました。父との練習はきつかったのですが、足がさほど速くないと思われていた姉が、父の練習メニューをこなしてインターハイで記録を作るという光景を目の当たりにしていたので、自分もやればできるのではないかという思いもあったのです。

母の存在があったからこそアスリートとして成長できた

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母親は食事の面で徹底的にサポートしてくれました。冷凍食品やレトルトなどは一切使わず、とにかく手作りの物を食べさせてくれた。おやつに至るまでカルシウムやタンパク質補給の為に、サンマの骨を焼いた物や干し芋で、スナック菓子や炭酸ジュースは一切口にしませんでした。幼少期から息子をアスリートにする事を意識し、体の成長と共にパフォーマンスが飛躍的に伸びて行ったのも、母の存在無くしては語れない本当に大きな支えでした。

一度は諦めかけた野球を続けた理由

地元中学校の野球部に入ったのですが、練習はきついし先輩後輩の関係が異常なまでに理不尽に厳しく、1年生の時点で即刻辞めたいと思うようになりました。父に「野球部を辞めたいんだけど」と言ってみると、あっさり「そうか、、」と。てっきり「もっと頑張れ」と言われると思っていたので、すっかり拍子抜けしてしまいました。心の中のモヤモヤ度数100%状態で、2日間練習を休みました。すると不思議な事に、ポッカリと心に穴が空いている事に気付く。「その穴を埋めるのは野球から逃げるのではなく、野球に立ち向かうしかない!!」と、もう一度野球部に戻ることを決意しました。

こうして戻れたのは、父が無理に引き止めなかった事と、チームメイトが強力なライバルとして常に前にいるような状況で、簡単にレギュラーになれなかったからです。自分は器用なタイプではありません。教えてもらった事を何度も繰り返しやってみて、ようやく掴む事が出来ると思っています。今現在、中学生を教えていて思う事があります。不器用な選手ほど、粘り強く努力し続けるタイプが多く、大成するまで時間は掛かっても、大きく育つ選手が多いのではないかと感じる事があります。自分があの時諦めずに野球を続けてこられた様に、本人が諦めるまでは、とことん一緒に良い所を見つけてあげたいと考えています。

自分の野球をするために選んだ学校

高校進学にあたり、秋田県内の甲子園へ行けそうな公立学校へ自己推薦で応募したのですが、すべて落ちてしまいました。ところが、状況が一変。県外・県内の私立強豪校2校から特待生の話が来たのです。しかも、野手ではなくピッチャーとして。甲子園に行ける可能性のある強い学校からの誘いに、もう中3の私の心の中はお祭り状態!!しかし、ふと冷静に考えてみると、我こそはと凄い選手が集まってくるチームである。自分は本当にやって行けるのだろうか、身の丈に合っていないのではないか、と考えるようになりました。

そんな中、とある高校の監督が直々に会いに来てくれました。甲子園に出場した事が無いどころか、秋田県大会で1回戦も勝った事が無い高校です。しかし、監督は私に力強くこう言いました。「3年後に君の力で甲子園へ連れて行ってくれないか」。私はその監督の一点の曇りも無い眼光と人柄に惹かれ、「強豪校を倒してやろう!」「強いチームに行ってレールの上を走るより、自分で道を切り開いてやろう!」と心が決まりました。そうして入学したのが、我が母校の秋田県立新屋高校。「自分が甲子園に連れて行くんだ!歴史を創る!」と心が躍っていたのを、つい昨日の事の様に覚えています。

父が信じてやまなかったプロの夢は、ドラフト1位になって叶えた

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最後まで甲子園出場の夢は諦めていませんでしたが、しかし3年生の夏は県大会2回戦で敗退。悔しくて泣き崩れましたが。しかし私はこの学校を選んで、この仲間と野球が出来た事に、一切の悔いはありませんでした。卒業後は幾つかの進路があったのですが、社会人野球の道を選び川崎製鉄千葉(現:JFE東日本)に入部。最大の理由の一つとして、オリンピックに出たいという思いがありました。

当時は、プロ野球選手はオリンピックの代表選手にはなれなかった時代です。社会人2年目には日本代表入り、3年目にはいよいよシドニーオリンピック。代表合宿にも召集され、意気揚々としていた矢先に背中の肉離れと右肘の故障。懸命のリハビリも間に合わず、オリンピック本選で投げるという夢は叶いませんでした。しかしながらその年のドラフト会議では、阪神タイガースを逆指名で1位入団。幼少期に柔道を辞め、半ば強引に野球の道に進んだ日から、父と私の努力の物語はドラフト1位という形で実を結びました。

野球をしている子供たちへ

野球を人生の全てにする必要はなく、一つのフック、つまり取っ掛かりになればいいと思います。野球を通じて、野球をしたらこそ、自分はこの様に選択肢を増やす事が出来た。という風に。また、自分で歩く道は自分で創って欲しいと思います。例えば、バッティングで「こういうふうに飛ばすように」と教えられたとしても、もし上手く飛ばせないのであれば、自分に合う方法を探し、試行錯誤の中でやってみれば良いのです。そちらの方が自分には合っているかもしれないから。不器用な自分がプロ野球選手になれたのは、自分の力量に嘘をつかなかったからだと思っています。

自分自身をしっかり見つめて知ること。足りない部分は時間を要しても必ず埋めて行く事。過大評価はせずに、その上で粘り強く努力をする事が大事です。自分を信じて、自分を褒めて、自分を大切に育ててみてください。


【取材・文】金木有香

【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年11月18日 (水)

第14回 元ソフトバンク・斉藤和巳さん

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南京都高 → 福岡ダイエー・福岡ソフトバンク
高校時代は2年秋からエースとして活躍し、甲子園出場は叶わなかったものの、190センチを超える身長から放るピッチングに多くの球団スカウトの注目を集めた。95年、福岡ダイエーホークスにドラフト1位で入団。03年に初の開幕投手を務め、登板試合15連勝を含む20勝を(3敗)挙げて沢村賞に輝くなど、“負けないエース”としてチームの日本一に大きく貢献。06年には投手5冠を達成し、パ・リーグ初の沢村賞複数回獲得投手となる。同年のCS登板後以降は、度重なる右肩の故障により計3度の手術を受ける。11年に支配下選手登録を解き、3軍リハビリ担当コーチとして現役復帰を目指すも、13年に復帰を断念し現役を引退。現在は、TVQ九州放送の野球解説者・西日本スポーツの専属評論家などとして活躍中。

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南京都高校のエースとしてチームを牽引し、ドラフト1位でソフトバンクに入団した斉藤さん。“負けない”エースとして沢村賞を2度獲得し、チームの絶対的エースとしてプロ野球の一時代を築きました。そんな斉藤さんに、ここまでのエースピッチャーになれるまでの練習方法や野球に取り組む姿勢など、プロ野球選手として活躍できた秘訣を伺いました。


野球をやることに、責任を持たせてくれた両親の教え

Img_saito400300_1野球をするようになったのは、2つ上の兄が小学3年生の時に少年野球チームに入団したのがきっかけでした。そのチームは、3年生からしか入部を受け付けていなかったのですが、当時、僕は兄の真似ばかりしていたので、「僕も入りたい」と志願して特別に入れてもらいました。

親は私たちに干渉するタイプではなかったので、私が野球をすることに対し、口出しはしませんでした。でも、練習でくじけそうになった時に、「自分で野球をやるって決めたのに、簡単に諦めるな」とよく言われましたね。「やるからには野球で1番になるくらい練習しろ」と何かをやることに対して責任を持つ大切さを教わりました。

様々なスポーツや遊びで筋肉を養った少年時代

小学生の時は、野球だけをやっていたわけではありませんでした。とにかく体を動かすことが好きでしたので、校庭でサッカーをしたり、近くの工場に入って天井まで登ったりと、外でたくさん遊びました。いろいろなスポーツや、遊びでケガをすることによって痛みを覚えたり、いろいろな筋肉を使ったりするんですよね。野球だけというのもいいですが、子供の時はそれ以外のことをやることも大事だと思います。

大好きなカレーライスでプロの体へ

Img_saito400300_2 父が身長190㎝、親戚一同も高身長で、僕の背が高いことは遺伝もあると思いますが、たくさん食べたこともプロで活躍できる体に繋がっています。実は1歳の頃から大人サイズのうどんを1玉普通に食べていたぐらい大食いだったようです。特に大好きだったのがカレーライスで、何かあればカレーという感じで、家で出てくるメニューの中で一番多かったですね。

カレーが好きな理由としては、秘密戦隊ゴレンジャーのキレンジャーが好きだったのもあるんです(笑)。キレンジャーは「ワシの体はカレーでできとるたい」って言うくらいのカレー好きなので、キレンジャーのようなヒーローの体に憧れてたくさんカレーを食べるようになりました。実際、カレーライスにすることでご飯が食べやすくなるので、食事の量を増やすのにはオススメですね。

キャッチボールと遠投がフォームの基盤を作る

私はボールを投げることが好きだったので、キャッチボールや遠投は人一倍練習しました。どれだけ低い球で遠くに投げられるかを同級生といつも競っていました。遠投は、山なりのボールなら遠くに投げられますが、低い球で遠くに投げることは、とても難しいんです。地肩だけでは投げられないので、いかに体全体をバランス良く使ってボールを投げるか。ピッチャーのトレーニングは、こういったボールの投げ方を工夫して体に馴染ませることが重要だと思います。この練習は、プロに入ってからもずっと続けていました。

アスリートはランニングが基本でウエイトは補助

野球の勉強は高校時代よりもプロに入ってから、体の仕組みや的確な練習方法を学びました。特に大切だと知ったのが、やはり基本的なランニングです。近年のトレーニングは、ウエイトトレーニングが主流になっていて、ガンガンとウエイトに励んでいましたが、自主トレの時にランニングをすると、筋肉の重さで腰を痛めてしまったのです。その失敗から、アスリートはまず走ることが基本で、ウエイトは補助。つまり、ランニングはご飯で、ウエイトは他の部分を補うサプリメントのような役割だと学びました。筋力を付けようとしてウエイトに偏ってしまうと、体は絶対にどこかで壊れてしまうので、バランス良くトレーニングすることが重要です。

自分が決めたことを続けることが夢を叶える一番の近道

何かを目指す上で一番大切なことは、自分が決めたことをまずは続けてみるということです。これは両親からの教えにも通じる部分がありますが、何かを続けた上で無理と判断できたなら次のステップに繋がると思うんです。でも、すぐに諦めて次に進んでしまうと、何が良くて何が悪いのかが分からなくなってしまう。つまり足を踏み入れていないまま止めてしまうと、それが自分に合っていることなのかどうか判断できないのです。

「継続は力なり」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、“継続しないと何かを達成することは難しい”ということを昔の人が体現し、言葉として語り継がれているのです。何かを達成し手に入れたいのなら何でも簡単に諦めたり逃げたりせず、それを乗り越えることです。何より最初から上手くできる人はいません。自分の興味を持ったことや、自分がこれだ!と思ったことを続けることが夢を叶える一番の近道だと思います。

【取材・文】佐藤主祥
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2015年6月 4日 (木)

第13回 元巨人・辻内崇伸さん

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大阪桐蔭 → 巨人 → JWBL(日本女子プロ野球機構)イーストアストライア・埼玉アストライアコーチ

高校時代は、2年秋からエースとして活躍し、3年夏の甲子園出場。一回戦の春日部共栄戦で球速156kmをマークし、その剛腕を披露した。さらに二回戦の藤代戦では、当時の大会タイ記録となる一試合19奪三振を記録し、大会通算で板東英二氏の83奪三振に次ぐ当時歴代2位の65奪三振を記録。チームは、田中将大擁する駒大苫小牧に敗れはしたが、初優勝を遂げた91年以来のベスト4まで勝ち進んだ。AAAアジア選手権大会では日本代表として出場し、松坂大輔擁する98年以来の優勝に貢献。その後、05年ドラフト1位で、オリックスとの競合の末に巨人に入団。毎年のように期待されたが、度重なる故障に見舞われ、一軍の登板機会がないまま13年に現役引退。現在は、日本女子プロ野球機構(JWBL)に所属する埼玉アストライアのコーチとして活躍中。

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大阪桐蔭のエースとして甲子園ベスト4に導いた辻内さん。最速156kmを記録したその剛腕に日本中が釘付けになりました。その球速まで辿り着いた学生時代の秘話や、多くのケガを経験し、何度も自分の体と向き合ってきた辻内さんだからこその貴重なお話をお聞きしました。

ひたすら走らされていた少年時代

Img_tsujiuchi300400_1小学生の時は、5kmある通学路を歩いて帰った後に、家の近くにある10㎞の堤防を走っていました。サボっていたら親が車や自転車で追いかけてきました。まさに「お前は野球で生きろ」という教育でした。

中学生の時は、シニアで土日しか練習がありませんでしたので、平日は中学校の陸上部の部活が終わった後毎日夕方6時から家の近くにあるシニアのグランドで、真っ暗な中一人でダッシュを1時間ほど走りました。疲れて休憩してると、親が見に来て「お前何やっとんねん!」と怒られていましたね。野球に関してはとても厳しい教育を受けてきました。


食事の量がプロの体を作る

Img_tsujiuchi300400_2_2食事面で特別気を遣っていたことはありませんが、家が農家なので、美味しいお米や野菜が大量にありました。ですので、毎日たくさんご飯のおかわりをしていましたし、「絶対出てくるものは食べなさい」という教育を受けてきましたので、苦手な野菜も必ず食べました。そのおかげで、今では好き嫌いはほとんどありません。

高校の寮生活でも、朝からご飯を400g(茶碗約3杯)食べるのがノルマで、食が細い選手たちが「苦しい…」と食べ終わるまで1時間かかっている中、僕は「美味しい、美味しい」と10分足らずで完食していました。家でたくさん食べていた成果だなと思いました。

成長期は自重トレーニングで下半身強化

小学生時代は、身長などいろいろな面が伸びる時期だと思います。その時にウエイトトレーニングのような重い負荷をかけるよりも、自分の体重でトレーニングをすることが一番だと思います。高校生の時もウエイトトレーニングはしましたが、やはり自分の体重を支える下半身をひたすら鍛えたことが、高校3年生の結果に繋がったのだと思います。

練習の継続がスピードボールに繋がった

実際スピードを意識して練習したことはほとんどありません。ランニングをポールからポールまでひたすら2時間体がボロボロになるまで走ったり、ジャンプ50回を20セットするなどずっと続けていました。本心は自分で考えて練習したかったんですけど、メニューを考えてくれる指導者が自分の周りには多かったんです。高校の監督からも、僕だけランニングや強化練習などの別メニューをやらされていました。きっと監督は、自分が嫌われてもいいという覚悟を持って僕に練習を課していたんです。その与えられた課題をしっかりやり続けた結果が、スピードボールに繋がったんだと思います。

151㎞という数字がプロへの道を開いた

プロ野球への意識は、高校2年生の時、球速151kmを計測したことが新聞一面に載った時に、周りが「プロ、プロ」と騒がれるようになった時です。プロになる目標はなかったので、最初は「なんなんやろぅ…」って思っていていました。でも、周りから言われるようになってから、「プロ野球に入れるのかなぁ」と意識し始めるようになったんです。それから甲子園でベスト4まで進んだ時、野球場や監督の周りに多くの球団スカウトの方が来ていました。東京に行きたかったというのもありましたが、プロに入るならやはりジャイアンツに入りたかったという気持ちが強かったです。

自分をサポートしてくれた両親に感謝

サポートと言っても、練習はほとんど監視でしたね(笑)。でも中学のシニアや高校野球部での父母会で両親はチームを支えてくれていました。土日の休みもすべて僕のために使ってくれていたので、当時はわかりませんでしたが、今は本当に感謝しています。

ケガをポジティブに捉える考え方が大切

中学1年生の時、肘をケガして1年間投げることができませんでした。その時は毎日手首のダンベルトレーニングとランニングメニューだけをしました。この練習に慣れるまで半年かかりましたが、半年後には全然疲れなくなりましたね。この半年で体力がとてもついたということでしょうね。そしてケガが治って、復帰後初めてピッチングをした時に、球速がケガの前に計測した105kmから115kmに10kmアップしたいました。走っていたからというのもありますが、手首を鍛えていた効果が出たんだと思います。

ケガは野球をしている以上起こるものですし、ケガをしてしまったら気持ちも落ち込んでしまいます。しかし、そんな時は「今のレベルよりもパワーアップするためにケガをしたんだ」という考えを持つことが大切だと思います。ケガが治ってからさらにレベルアップしているとイメージを持ち、毎日継続してトレーニングを行うことが大切だと思います。

【取材・文】佐藤主祥
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2014年6月 7日 (土)

第12回 元横浜・野村弘樹さん

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PL学園 → 大洋・横浜 → 横浜コーチ

広島中央リトルでは、1学年上の元阪神・金本選手とともに技術を磨き、ボーイズリーグ・広島ジャガーズを経て、名門・PL学園に入学。87年、立浪和義(中日)、片岡篤史(阪神等)、橋本清(巨人)、宮本慎也(ヤクルト)らを擁した強力チームのエースとして史上4校目の甲子園春夏連覇を成し遂げ、同年秋のドラフト3位指名を受け、横浜大洋ホエールズに入団。88年、対広島戦で高卒ルーキーとしては史上5人目のプロ初登板初完封勝利を挙げ、90年、プロ入り初の2桁勝利を挙げ、オールスターゲームに出場。翌91年は2年連続二桁となる15勝を挙げると、93年には17勝を挙げ最多勝に輝く。98年には3年連続二桁勝利となる13勝を挙げ、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。同年の日本シリーズは開幕投手に抜擢され、投打にわたり大活躍。02年、現役引退。

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甲子園で春夏連覇を達成した強豪・PL学園のエースだった野村さん。数々のドラマを生みだしたPL学園の歴史の中でも、史上最強のチームだと言われたのが野村さんの世代でした。卒業後は、ドラフト3位で当時の横浜大洋ホエールズに入団。1998年、横浜ベイスターズが日本一になった時には、エースとして活躍しました。日本一になる時はいつもエースだった野村さんはどんな少年だったのか、お父様との関わりについても貴重なお話をお聞きしました。


父の教えを守り抜いた少年時代

Img_nomura2 小学2年生でリトルリーグに入り、翌年にはボーイズリーグに移りました。ルールの面において、より本格的に野球をするにはボーイリーグのほうがよいという父の判断でした。私にとって、野球と父は切り離せないもの。野球を始めたのも続けてきたのも、父がいたからです。

毎日、父が会社から帰る頃には、家の庭で素振りをしていました。していないと怒られるからです(笑)。そして父が帰ってきたら、一緒にキャッチボール。日が落ちてからもボールを見られるように、黄色い蛍光塗料を塗っていました。今は市販でもそのようなボールがありますが、当時はありませんでした。また、バットをまっすぐ振れるように、竹竿で素振りをしていました。手の使い方や腕だけでなく、体を使ってバットを振る練習になりました。また、子どもの頃は体がかたかったため、柔らかくするために、毎日、黒酢を飲んでいました。これも、父の教えです。父から教えられたすべてのことは、やりたいやりたくないではなく、とにかくやり続ける習慣のようになっていましたね。


硬式と軟式、どちらのチームに入る?

私は小2という早い時期から硬式を始めましたが、硬式と軟式、どちらがよいかということは、一概には言えません。硬式のボールは重いので、成長期の子どもには負担になる場合もありますし、ボールに慣れることで強い体ができるとも言えます。また、軟式出身のプロ野球選手はたくさんいますから、硬式よりも技術が劣っているわけでは決してないのです。同じ学年でも体の大きさに違いがあるので、同じことは当てはまりません。ただ、私の経験からすると、硬式と軟式ではボールのバウンドが違いますから、より「野球感」をつかめるのは硬式だと思います。

ご両親がお子さんを連れて、チームの練習を観にいくことをお勧めします。まずは、硬式か軟式かというより、指導者の方に会いチームの雰囲気を見てみることが大事です。ご両親もお子さんも、「このチームは合いそう」「雰囲気に少し馴染めない」など、きっと感じることがあるはずです。

右投げから左投げへ変わったのは…

Img_nomura3 小学生の頃、外野に入場するためのお小遣いとおにぎりを持って、広島市民球場に通っていました。目の前で試合を見て、漠然と「プロ野球選手になりたい」と思い始めていましたが、その頃プロ野球選手は、かっこよくて遠い存在。スタンドから声を掛けるなんて、できませんでした。

私がプロ野球選手になるために行ったのは、「父の教えに従う」ということでした。今のように野球教室はなく、父に教えてもらいついていくしか方法はないと思っていたからです。

ただ、1つだけ自主的に始めたことがありました。それは、左で投げること。私はもともと右投げだったのですが、巨人の星の星飛馬に憧れて、左で投げる練習をしていたのです。父は「ポジションが限られるから右のほうがいい」と言っていたのですが、左で投げることだけはやめませんでした。そうすると父は、右用のグローブを裏返して使っているのを見かねて、左用のグローブを買って来てくれたのです。今思うと、右と左の両方で投げていたのが、バランスのよい体をつくるのにひと役買っていました。ですから、片側の動きばかりをひたすら続けるのではなく、反対側を使う動きもすることを、私はいつも勧めています。

自分を高めてくれる選手との出会い

中学生になると、大阪のボーイズリーグチームと戦うようになりました。対戦相手のチームにいたのが、のちにPL学園でチームメイトとなる橋本と立浪。その頃から2人は選手として非常に目立っていました。私がPLに入ろうと決めた頃、2人も同じくPLに行くという話を聞き「そんな高いレベルなら、PLに入ってもベンチすら入れないかもしれない」と危機感を抱くようになりました。そこで始めたのが、週3回のジム通い。それまでも毎朝6時に起きてランニングをしていたのですが、さらに自主トレを強化しました。ただ、ジムと言っても、器具を使ってトレーニングをするのではなく、腕立て伏せ150回、懸垂150回、腹筋600回というメニューをこなしていました。お尻の皮がむけるほどだったのですが、終わるまで帰してもらえませんでした(笑)。おかげで、PLに入って橋本と再会をした時「体が変わった」と言われました。

故障しにくい体づくり

ぜひ、野球以外でも体を動かしてほしいと思います。野球は片方の体しか使いません。成長期には、片方の動きだけを集中して行わないほうがよいでしょう。また、ウエイトトレーニングは、直線的な動きしかしないので、あまりおすすめではありません。野球の動きはすべてひねりが入りますから、一つ間違うと故障につながってしまいます。成長期は、柔軟性を高める運動を行ってください。

体のバランスがとれると、故障しにくい体になります。スポーツだけではなく、ジャングルジムにのぼったり、缶けりをしたりすることで、バランスのとれた体が作られていきますので、外で遊ぶことはとても大切です。そして、プロ野球の試合を観て、選手のものまねをしてみてください。その動きが似ていたら、体の使い方が上手いということ。自分がどういう姿で投げている、打っているのかを知った上で、練習をしてほしいと思います。

ご両親はお子さんに対して、結果よりも成果を見てあげるようにしてください。たとえ三振をして戻って来たとしても「さっきのスイングは、前より速くなっているよ。また、素振りをしたらもっとよくなるんじゃない?」というふうに言ってあげると、落ち込まず前向きに取り組めるはずです。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2014年3月29日 (土)

第11回 元巨人・駒田徳広さん

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桜井商(奈良) → 巨人 → 横浜 → 東北楽天コーチ → 横浜コーチ

高校時代はエースで4番として活躍し、高校通算43本塁打、打率.490を記録。イニングの先頭バッターで敬遠されたり、高校3年時の奈良県大会決勝戦で、強豪天理高校戦において無死満塁で敬遠されたエピソードを持つ。80年、ドラフト2位で投手として巨人に入団。1年目の春季キャンプから内野手に転向。プロ3年目の83年に一塁手で先発出場し、満塁の場面から初打席初本塁打を記録。90年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録。チームのセ・リーグ二連覇に貢献し、オールスターゲームにも初出場。95年、横浜に移籍。98年、キャプテンに就任し、マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。00年に2000本安打を達成し、同年引退。

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奈良・桜井商業からドラフト2位で読売ジャイアンツに入団。プロ初打席で満塁ホームランを放つなど、もっぱらチャンスに強く、特に満塁で発揮される底力で数々のホームランを生み出し「満塁男」の異名で活躍しました。横浜ベイスターズに移籍後の2000年には2000本安打を達成し、球界に名を残す選手の一人なった駒田選手。今回は、プロ野球選手になるためにするべきこと、チャンスに強くなる秘訣など、貴重なお話をお聞きしました。

水泳で作られたバランスのよい体

Img_komada02 幼稚園の頃にキャッチボールを始めたのが、野球人生のスタートです。進んだ地元の小学校は、水泳が盛んで、奈良県では屈指の強豪校でした。野球よりも水泳をする環境が整っている状況。私も毎日、水泳の練習を行い、野球は草野球で楽しむ程度でしたが、いつも心の中では「中学校に行ったら、絶対、野球部に入るぞ」と考えていました。ただ、小学生の頃に水泳をしたことは、後々、野球をするのにも大いに役に立ちました。それは、水泳をすることによって、小さいうちからバランスのよい体が作られるからです。私の同級生や後輩もプロ野球選手になっていますが、皆、小学生の時に水泳をやっていた仲間でした。ですから、子どもの頃から筋力トレーニングをするよりも、水泳で体づくりをすることをおすすめしたいですね。

野球に打ち込み始めた中学時代

中学校はそのまま地元の学校に進んだのですが、今度は、野球部が県大会の上位に行くような強いチームでした。いよいよ、やりたかった野球に打ち込める環境が整いました。この頃には身長もずいぶん高くなっていました。体を大きくするために特別な食事をしたという記憶はないのですが、お肉が大好きで、あとはほうれん草と卵をよく食べていました。今の子どもたちには伝わらないかもしれませんが、これでポパイのように力が湧いてきたのではないかと思っています(笑)。

近くにある大きな目標に向かって

Img_komada03 高校は、甲子園を目指せる学校というのが大前提だったので、まずは一般入試で、甲子園に一番近いと思われる天理高校を受験しました。結果は、残念ながら不合格。公立高校にシフトチェンジし、桜井商業へ進学を決めました。当時、校長先生が奈良県高野連の会長を務めていたため、野球部を強化しているところだったのです。高校3年間は、とにかく、天理高校に勝つことを念頭において野球をやっていました。そして、その先にあるのは甲子園出場。それらが野球をする何よりもの原動力になっていたのです。また、天理高校用の戦略を考えて、例えばピッチングにしても、それまでオーバースローで投げていたのを、サイドスローに変えてみるなど、様々な工夫をしました。残念ながら甲子園には行けませんでしたが、天理高校に勝つという身近な目標に向かっていたことが、野球選手として成長させてくれ、気づけばプロ野球選手になっていました。

己に負けないことがプロ野球選手への道を開く

高校時代に、プロ野球選手を目標にしたことは一度もありませんでした。「天理高校に勝って甲子園に行くんだ」という一心で、野球をやっていましたから。私は、プロ野球選手になるためには、「負けず嫌い」であるべきだと思っています。何も、周りの選手や学校を敵対視しろと言っているのではありません。負けず嫌いというのは、自分に負けないこと、あるいは自分が負けてしまったことを克服することです。誰でも常に自分に打ち勝つことは、難しいでしょう。ですから、うまくできなかったことをそのままにせず、別の方法でもよいので、納得できるまでやってみることが大切です。相手を負かすのではなく、自分がその悔しかった出来事を忘れられるほど頑張れるのかどうか、ということだと思います。

チャンスに強くなる3か条

「チャンスに強くなるためには、どうすればよいですか?」という質問をよく受けます。1つ目は、観察力をつけること。自分の打席以外でも、ピッチャーの配球をよく見てほしいと思います。私の経験からすると、打てないバッターは、自分の打席しか見ておらず他の状況が頭に入っていないのです。2つ目は、気合いを入れるためだけに、むやみに声を出さないこと。気合いは入っているのが大前提。声に出すのは、相手ピッチャーやバッターを見て読み取ったことを伝えるためです。それは自分のためにもなるし、皆ができているのなら、チャンスに強いチームになれます。

そして3つ目は、開き直って打席に入るということ。つまり、最悪の状態を頭に置いておくということです。人は勝てると思うと、戦略を練らなくなります。バッターの勝率は、基本的に3割程度。7割は負けるとすれば、戦略を練るしかない。また、負ける=打てなかったとき、はどのような状況になるのか、と考えておけば、自ずと思いっきりプレイをするしかないという思いにたどりつけるはずです。プラスのイメージを描いてその通りになるのは、天才だけ。打てなかったときのことを考え整理した上で、打てたら楽しいだろうなという気持ちで臨んでみてください。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2013年2月19日 (火)

第10回 元ヤクルト・内藤尚行さん

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愛知・豊川高 → ヤクルト → 千葉ロッテ → 中日

豊川高校から87年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。1年目から1軍に抜擢され、2年目からはリリーフ投手として活躍。89年には12勝8セーブを挙げオールスターゲームに出場。野村克也監督が就任した90年と翌年の91年には開幕投手を務める。93年9月、優勝がかかった中日戦では延長15回無死満塁で3者連続三振を奪い、ヤクルトファンの語り草となった。95年に千葉ロッテ、96年シーズン途中に地元の中日に移籍。現役引退後は、解説者やタレントとして活躍。2013年からは独立リーグ・新潟アルビレックスBCの監督を務める。


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豪快な雄叫びと「ギャオス」のニックネームで、野球を知らなくても内藤は知っていると言わせたほどの存在感を持つ内藤尚行さん。愛知・豊川高校時代、偶然先輩を見に来たスカウトの目に留まり、ヤクルトスワローズにドラフト3位で入団。スワローズ黄金時代の強さと人気の両面を支えた内藤さんの、人を惹きつける力や幼い頃の練習方法、プロ野球選手になるための素質と心の在り方についてお話を伺いました。

衝撃的な野球との出会い

Img_naito2父がソフトボール、4つ上の兄が野球をしていた影響で、小2の頃にキャッチボールを始めました。そのキャッチボールの相手は、父でも兄でもなく近所のおじさんでした。体が大きい兄の投げるボールが少し怖くて、おじさんに相手をしてもらっていたのですが、ある日、おじさんの投げたボールが顔面に直撃。この出来事が、私を野球に目覚めさせたのです。痛くて泣きながら「野球がうまくなりたい」と心から思いました。逆に、ここで野球が嫌になって辞めてしまうこともあると思うのですが、私にとっては、この痛さが衝撃的な野球との出会いだったのです。その日から、12メートルほど離れた壁にボールを投げて捕る「壁当て」の練習を始めました。2年生で始めて6年生までの5年間、朝晩かかさず続けましたが、やらされている感覚はまったく無く、野球がうまくなりたい一心でした。周りは一心不乱に壁当てをやっている少年を見て「大丈夫かな?」と思っていかもしれませんね(笑)。

一人の練習が花開いた日

小学3年生の時、町内のソフトボールチームに入部しようと、監督に会いに行きました。毎日かかさず、自分で工夫をした壁当てをしてきたので、4、5年生と対等にできる自信はあったのですが、チームの決まりで4年生以上でないと入部できなかったのです。でも監督が「1年後には必ず入部できるから、一緒にやろう」と言ってくれたことが嬉しくて、またそこから1年間、一人で壁投げの練習を続けました。ソフトボールチームに入ろうとしていたにも関わらず、念頭にあるのは野球ですから当然軟式ボールを使って上投げをしていたのです。そして、晴れてチームに入る日がやってきたのですが、びっくりですよ。ピッチャーが下から投げているではないですか?!野球もソフトボールも一緒だと思っていたけど、そういえばピッチャーの投げ方が違ったなと、その時になって思い出しました(笑)。それでもピッチャーを希望しましたが、下投げは練習していなかったので、4番センターとして入部当初から試合に出させてもらいました。一人の壁当て練習により、コントロールとグラブさばきが身についていたので、即戦力になれたのだと思います。

練習はユニホームを着た時だけではない

私が育ったのは野球の盛んな地域で、小学校高学年になるとリトルリーグに入る子どもたちもいました。私も入りたかったのですが、両親は反対でした。地域のチームで、近所の子どもたちと自由に野球をさせたいという思いがあったようです。両親に余計な負担や心配をかけたくないと考え地域のチームで続けた結果、「毎日が練習」という習慣が身につきました。ただ、自由ということは自主的に動くということでもあります。昔も今もユニホームを着た時だけが練習だと思っている選手がいますが、人よりうまくなりたければ、みんなと同じだけの練習をしていては足りないでしょう。野球がうまくなれたのは、リトルリーグに入らなかったことで、逆に練習量が増えたからだと思います。

悔しさの向こうにあったプロ野球への道

Img_naito1中学校の野球部に入ると、同級生に自分よりも体が大きくて速い球を投げるピッチャーがいました。チームメイトは私たち二人をライバル同士として見ていましたが、自分自身は、まだ彼には及ばないと思っていました。でも、練習量だけは負けてはいなかったと思います。昔からみんなとの練習は楽しく、つらい練習は一人の時にするものだと決めていたので、野球部の練習が終わった後、毎日ランニングを続けました。中学3年生になり進路を決める時期に、ある強豪高校のセレクションを受けましたが、結果は不合格。「足腰がなっていない」と理由を聞いた時は、本当に悔しい思いでした。毎日欠かさずランニングをしてきた自負もありましたし、どうしてきちんと見てくれてもいないのに、適当な理由で断るのだろうと。それから、野球部の監督の勧めもあり、地元の豊川高校に進むことになったのですが、ここで思いもしないツキが回ってきたのです。本来、それほど有名校ではない野球部に、プロ野球のスカウトが来ることはあまりありませんが、2年先輩に150キロのスピードボールを投げる先輩がプロに注目され、スカウトが学校に来るようになったのです。その時に私を見かけたスカウトの方たちが目をかけてくれるようになり、プロ野球への道が見えてきました。

プロ野球選手になる素質

実際、高校3年生の時に8球団からのアプローチがありました。その中で、私が会ったのは、ヤクルトスワローズだけ。理由は自分なりに考えて、ヤクルトであれば、ピッチャーのローテンションに入って活躍できると考えたからです。入団後、高卒ルーキーながら1軍のキャンプに参加することができました。中学3年生の時に、プロ野球選手になりたいではなく、なれると確信し、その方向へ進むために決してぶれることはありませんでした。当時から、私のことをサポートしてくれる人たちがいましたが、その方たちをがっかりさせない、恥をかかせないために自分をしっかり持っておかなくてはいけないと思っていました。それから、プロ野球選手になる素質として「小生意気(こなまいき)」というのも必要です。私の場合、中学ではまだ試合に出てもいない補欠のうちから監督に呼ばれて怒られたり、高校ではマウンドで雄叫びをあげて高野連から注意されたり、大学の練習に参加した時は「ここには自分のやりたい野球は無い、プロに行く」と宣言したり、思い出してみても、結構、生意気だったなあと思います(笑)。

すべては楽しむことから始まる

ライバルに差をつけ、ここぞという時に活躍できる選手になるためには、プレッシャーをプレッシャーと思わないようにすることが大事だと思います。そのプレッシャーを跳ね除けるためには、練習しかありません。特に一人でする練習が大切です。しかし、それは本当に自分の身になっているのかと、不安との戦いでもあります。どんな一流プレーヤーでも不安を取り除くために毎日練習するのですが、練習を単なる練習だと思わず、楽しむ気持ちが必要です。戦いの中に身を置くと、気持ちの持って行き方がとても重要で、気持ちを置き換える作業、楽しくなるように言い換えると「気持ちの置き換え合戦」ができるといいと思います。そして、下半身強化のために、ランニングを続けてください。ウェイトトーレーニングもありますが、まずは、走り込みです。走らされていると思うと、つまらない練習に思えてしまうでしょう。必ず自分のためになると信じて、強くなる自分を想像して、楽しみながら走ってほしいと思います。以前、イチロー選手にも話したのですが、同じ時間を費やすのなら楽しんだほうがよい結果につながり、自分のためになります。夢を叶えるために、苦しいトレーニングや単調な反復練習をできるだけ楽しんで、そして続けてみてください。そうするとプレッシャーそのものが楽しくなるはずです。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2013年1月30日 (水)

第9回 元ヤクルト・副島孔太さん

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桐蔭学園 → 法政大 → ヤクルト → オリックス

少年野球(シニアリーグ)時代から日本代表として活躍。その後、高校2年、3年の夏の甲子園に連続出場。3年生に髙木大成選手(元西武)、1年生に高橋由伸選手(現巨人)を擁して旋風を起こし、この年の甲子園3回戦ではラッキーゾーンへのホームランを放つ。 法政大学時代は、スラッガーとして活躍。96年の全日本大学 選手権で東北福祉大学を破って学生日本一となり、同年のドラフトでヤクルトに入団。01年の日本シリーズの第4戦で、決勝ホームランを放ちチームの日本一に貢献。ヤクルトで活躍後、02年オリックスに移籍。引退後は、タレントの萩本欣一氏が率いる社会人クラブチーム・茨城ゴールデンゴールズで選手兼コーチを歴任。現在は、獨協大学野球部の臨時コーチや野球塾のコーチとして活躍中。

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中学時代は日本代表に選ばれ、桐蔭学園で夏の甲子園出場、法政大学では大学通算11本塁打を放つ強打者として3年生時に日本一を成し遂げました。そして大学卒業後、ドラフト5位でヤクルトスワローズに入団し、子どもの頃から思い続けた夢を実現。エリートとも言える華々しい野球人生を歩んできた副島孔太さん。しかし運だけではない、すべては夢を叶えるために考え行動し、努力を惜しまない姿がいつもありました。野球エリート・副島さんの子どもの頃のエピソードを含め、野球少年、野球少女へ送る貴重なお話をお聞きしました

軟式を続けるか、硬式を始めるかを決める基準

Img_soejima2野球を始めたのは小学1年生の時。野球好きの父の影響で、気づけば野球をやっていました。4年生の時、父のアドバイスで左打ちになろうとしたのですが、その時所属していた少年野球チームでは、もともと右打ちの選手が左打ちになることを許可してもらえませんでした。それがきっかけで、リトルリーグへ入団することになり、同時に硬式野球に移行しました。「いつから硬式を始めるのがよいか」という質問をよく受けるのですが、個人差もありますし、具体的に「いつがいい」「どちらがいい」ということは決められません。ただ、ピッチャーなら軟式のまま続けてもいいのですが、野手は、体の使い方や技術を向上させるためには、硬式の方が良いと思います。野手の打つ、捕る、投げるに関しては、硬式ができれば軟式もできるからです。そしてもうひとつ、一緒に野球をする仲間がいるかどうかということです。これは、軟式か硬式であるかという前に、大事なことです。野球を通じてすばらしい仲間にめぐり会い、この仲間と一緒に野球をしたいと思えるかどうかも、子どもの頃は重要な基準になるのではないでしょうか。私自身は、リトルリーグに入って、小学校や地区以外の選手と出会うことができ、野球をする仲間が増えたことがとてもよかったと思っています。

強い選手の条件は、よく食べること

子どもの頃、父はいつも試合を観に来てくれました。野球が好きでよくアドバイスをしてくれましたが、技術的なことを超えてチームの在り方のことになると、お互いに熱くなることもありました(笑)。母は直接、野球のことに口を挟むことはありませんでしたが、毎日おいしいものをたくさん食べさせてくれました。肉が好きだったので、いろいろな肉料理を作ってくれました。野球の技術を習得することはもちろん大切なことですが、まずはたくさん食べて強く大きな体になることが、何よりも大切だと思います。強い体は、病気をしにくくなり思う存分練習ができますし、試合でも大事な場面で力が発揮できます。私の子どもの頃と違って、現在はサプリメントを摂取する方法が増えていますが、まずは、ご飯をしっかり食べるという事を基本にしてほしいと思います。

トレーニングも基礎と知識が大切

小学生の頃からトレーニングを始めるのはよいことだと思いますが、自分の体重を使ってできるトレーニングに限った方がよいと思います。また、おもりを使ったトレーニングは、知識をつけて、正しくできるようになってからがいいですね。私は、高校生までは正直トレーニングはあまり好きではなく、大学生になってはじめて必要性を感じ、自主的に行うようになりました。まずはバランス感覚を養うために、自分の体をコントロールするトレーニングと股関節、腹筋、背筋を鍛えることに重点をおくことをおすすめします。私の子どもの頃は、外で遊んでいるだけで、野球に必要な筋肉が鍛えられたものです。今の子どもたちは、外で遊ぶことが減っていると思いますが、小・中学生ぐらいまでは「走る」「バットを振る」ことを続けることで、十分トレーニングになります。

気づく力が野球を上達させる

Img_soejima2野球が上達するためには「気づく」ということが大切です。私は、キャッチャーとピッチャーを経験して外野手になったので、他の選手のプレーや練習内容に関して、いろいろなことを見て気づけるようになりました。気づくというのは、単純に目に見えるものだけではなく、知識や経験によって気づけることもあるので、そういう点で多種のポジションを経験することは、とてもよいことだと思います。気づかなければ、自分が何をするべきなのかも分かりません。小学生の時点ではまだ、自分で気づくということは難しいでしょうが、ただ言われたことをそのままやらされているのか、その中に自分の考えを少しでも持つことができるかどうかで、ずいぶん違います。気づく力を養うためには、大人のコーチたちが子どもたちの言葉で話すことや、コーチが一方的に話すのではなく質問をしながら話すことが重要です。さらに、言葉で伝わらない部分は、練習内容を工夫して、体で分かるようにしてあげてほしいと思います。

当たり前を変えることが、夢への実現につながる

プロ野球選手になるためには「なりたい」と思っていてはなれません。私自身、小学生の頃から「プロ野球選手になりたい」ではなく、「プロ野球選手になる」と言い、当然なるものだと思って、そんな自分の姿をいつも思い描いていました。小学1年生から6年生まで、毎朝6時に起きて、近所のお寺の96段ある階段を10本走っていました。でも、つらいとか嫌だと思ったことはありません。プロ野球選手になるのだから、当たり前だと思っていました。当たり前を変えるという作業は、とても大事なことです。当たり前だと思えばなんてことはない、大変なことだと思うから大変になるのです。

野球の指導で子どもたちによく話すことは「夢に向かって頑張ってください」ではなく、「夢を叶えてください」ということです。夢は見るだけではつまらない、叶えるものです。夢を叶えようとして行動していれば、必ずよい方向に向かうでしょう。そして最後に感謝の気持ちを忘れないでほしいということ。いろいろなことが起きる世の中ですから、野球がしたくても何らかの事情でできない子どもたちもいます。野球ができている環境や、支えてくれている家族に感謝の気持ちを忘れず練習に励んでください。感謝の気持ちがあれば、責任のある行動ができ、それが夢を叶える第一歩なのです。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2013年1月22日 (火)

第8回 元ソフトバンク・竹岡和宏さん

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守山高 → 近畿大 → 日本IBM野洲 → 中山硬式野球クラブ → アトランタ・ブレーブス(マイナー) → 福岡ソフトバンク

近畿大学卒業後、社会人野球を経て、MLBアトランタ・ブレーブスとマイナー契約。02年、3Aリッチモンドで活躍し、03年にドラフト8位で福岡ダイエーホークス入団。29歳でのプロ入りとあって、27歳で入団した三瀬幸司投手と共にオールドルーキーとして注目を集める。06年、先発やロングリリーバーとして活躍し、自己最多の22試合に登板、防御率1.88をマーク。現役引退後は、社会人クラブチーム・OBC高島に入部し、選手兼任コーチとして、同年の全日本クラブ野球選手権大会ベスト4進出・社会人野球日本選手権大会の初出場に貢献。現在は、ストレッチスタジオを経営しながら、野球塾の指導者としても活躍中。

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大学、社会人、クラブチームを経て、アメリカのマイナーリーグと独立リーグでプレーした竹岡和宏さん。帰国後、福岡ダイエーホークスにドラフト8位で入団。29歳でのプロ入りは注目を集め、オールドルーキーと呼ばれました。小学校から高校まで地元で野球を続け、日米で様々なチームを経験してプロ野球選手になった竹岡さんの野球人生についてお聞きしました。

野球と外遊びばかりしていた少年時代

Img_takeoka2小学校低学年の時、友達から誘われてサッカーを始めたものの、それほど熱中をすることはありませんでした。私が住んでいた関西では、新聞、テレビのスポーツニュースはいつも阪神。そして父が野球、母がソフトボールをやっていたこともあり、野球をやりたい気持ちが強くなっていきました。「やり始めたことはすぐに辞めてはいけない」と父に言われていたので、1年間はサッカーを続け、小学3年生の時に小学校の野球チームに入りました。そのチームは平日練習があり、行ける人が集まるという雰囲気でしたが、気づけば毎日休まず行っていました。5年生からレギュラーになり、内野手として試合に出ていました。野球をしている時以外は、ずっと外で遊んでいましたし、家にいるのはご飯を食べる時と寝る時だけという毎日でした。

野菜とお米が丈夫な体を作る

食事の面では、実家が農家だったので、いつも新鮮な野菜が食卓に並んでいました。我が家の食事は「野菜と魚を毎日たくさん食べて、肉は週に1度」という献立でした。小学生の頃から毎日、母がご飯を1升炊いてくれて、私はその半分の5合を食べていました。有難いことに野菜とお米を思う存分食べていたので、体が大きくなったのだと思います。野球をしている子どもたちには、たくさん食べるようにと言いたいところですが、時代も違いますし、それぞれの環境もありますから私の子どもの頃と同じようにとはいかないでしょうね。でも体を作るためには、できる限り野菜とお米をたくさん食べてほしいと思います。

野球を上達させる秘訣

子どもの頃、両親は忙しかったのですが、試合は観に来てくれました。父親は、試合を観に行けなかった時に「今日はどうだった?」といつも聞いてくれたので、気にしてくれていたのだと思います。ただ、両親から野球を教えてもらったという記憶はありません。両親からのアドバイスが無かったおかげで、私は自分であれこれ考えるのが好きになり、「次にこうしたら、上手くいくかな」と想像をして、実際、練習や試合でやってみるということを繰り返していました。自分で考えて工夫したことが、きちんと上達につながっていました。

自分に合うものを見つけ出すことが大事

Img_takeoka3器具を使った筋トレは、高校生の時にコーチにすすめられて始めました。自分で本を読んで、どのようなトレーニングがよいかを研究したりもしました。いつから始めるのがよいかということは、本人がやってみようと思った時がいいのではないでしょうか。興味が無いことを無理やりしても続きませんし、身になりませんから。それから高校の時、監督から「無駄をたくさんやれ!」と言われました。いろいろなことを試さないと、自分にとって何がよいか、何が必要なのか分からないという意味です。何事もやってみないことには分からない。やってみた上で、取捨選択をして一番合ったものをみつけることができれば、一生懸命できると思います。今の時代、インターネットを見ると膨大な情報が溢れています。情報が多くなった分、取捨選択も難しくなってきているでしょう。その中で自分に合うものを選別するには、「結果を出すために何が必要か」を念頭に置くことが重要です。

ハングリー精神がプロ野球選手への道を開いた

小学生の頃、プロ野球選手は憧れの存在でした。しかし高校の時に「野球を30歳まで続ける」と宣言してからは、プロ野球選手になるという気持ちが強くなっていきました。大学では、同じチームや同じリーグの選手がプロ野球選手になっていくのを見て「自分は野球のエリートでは無いけど、田舎から出てきて野球をするために自力で大学にも入った。ここで負けたくない」と思いました。大学1年生の時、同学年が25人ほどいて、みんなは高校時代に練習試合や甲子園で対戦していたので顔見知りだったのですが、私は無名校だったため誰も知りませんでした。その時、とても屈辱的な思いをし、「花を咲かせずに帰るわけにはいかない」と強く思い、その気持ちがプロ野球選手になる原動力になったのを覚えています。

そして実際プロ野球選手になれたのは、体が大きかったことと、好きな野球を「やり続けたこと」だと思います。世間一般的には、20代半ばにもなれば、どこかで野球を諦めて、きちんとした仕事に就かなくてはいけないと思うでしょう。でも、私を含め野球をやっている者にとっては、それ以上にプロ野球選手になりたい気持ちが強いのです。ハングリー精神を持って、諦めずにチャンスをつかみにいったことが道を切り開いたと思います。やり続ければ、チャンスは巡ってきますから。

夢を叶えるためには、自ら決めた道を突き進む

チャンスは待っているだけではなく、自分で道を切り開いていくという強い気持ちが必要ですが、自分一人だけの力では成り立たないのも事実です。私は、多くのすばらしい出会いに恵まれたので、アメリカと日本でプロ野球選手としてプレーすることができました。出会いに恵まれ、人に恵まれたことは、野球が私に与えてくれたもの。そう思うと、野球をやってきて本当によかったと思います。しかし、思うように実力が発揮できず焦ったり、本当はもっとできるはずなのに認めてもらえず悔しい思いをしたり、壁にぶつかったりすることもあるでしょう。そんなときは腐って諦めてしまうのではなく、自分の進むべき道を再確認してほしいと思います。自分が決めたこと、自分がよいと思ったことは一生懸命できるし後悔しません。いろいろな出会いを大切にし、その上で自分で決めた道を突き進めば、きっと夢を叶えることができるはずです。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2013年1月16日 (水)

第7回 元日本ハム・今関勝さん

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武相高(中退) → 大楠高 → WIEN BASEBALL CLUB → NTT東京 →
日本ハム → アメリカ独立リーグ

横須賀エラーズでは、市大会で優勝。武相中に入学し、野球部の選抜にも合格。しかし武相高時代には部員によるいじめにあい、1年で中退し大楠高校へ転校。70回大会2回戦では、2年生エースとして優勝候補の横浜高と対戦し、主砲の鈴木尚典(元横浜)に本塁打を浴びる。高校3年時は年齢制限のためクラブチームでプレーし、その後NTT東京に入社。93年、ドラフト3位で日本ハムに入団。96年に11勝を挙げ、オールスター戦にも出場。00年、アメリカ独立リーグに入団し、03年まで活躍。08年、東北楽天ゴールデンイーグルス・ベースボールスクールのジュニアヘッドコーチを歴任。13年からは、野球指導、講演、野球評論家として活躍中。

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高校時代に「いじめ」という大きな壁にぶつかっても、プロ野球選手になることを決意し、強い信念で夢を実現させた今関さん。日本とアメリカのプロ野球を経験し、東北楽天イーグルスのジュニアコーチとして子どもたちを指導して感じたことは、「やさしさを持った選手は、野球が上達する」ということでした。身体づくりとともに、心の持ち方が野球をレベルアップさせ、夢の実現へつながることをご自分の経験とともにお話してくださいました。

様々なポジションを経験し、自らつかんだエースの座

Img_imazeki2小学1年生から野球を始め、4年生から4番・キャッチャーとして試合に出るようになりました。中学時代は主にショートだったのですが、セカンド以外のポジションはすべて守りました。ピッチャーになったのは、中学3年生の4月。どうしてもピッチャーがやりたくて、監督に「小学生からずっとピッチャーをやってきたので、僕にやらせてください」と直談判しました。実は「ずっとピッチャーをやってきた」というのは、少し大げさなのですが(笑)。それほどピッチャーをやりたいという気持ちが強かったのです。私自身の経験から、小・中学生の頃にいろいろなポジションを守ることは、非常に良いことだと思います。それは、自分の可能性を広げるとともに、同じチームの仲間の気持ちが分かるようになるからです。

他のスポーツをすることが野球に役立つ

私が最初に始めたスポーツは、柔道でした。父親のすすめで幼稚園から小学校入学までは柔道を、小学1年生から3年生までは野球と柔道を掛け持ち、4年生の時に野球でレギュラーになり、ここから野球一本になりました。ポジションに関してお話したのと同様、野球以外のスポーツを経験することも、運動神経を鍛えるためにとても良いことです。運動神経とは、脳と筋肉の神経回路を作ることです。例えば、野球と柔道では、筋肉や体のぶつかる場所が違います。柔道で身に付けた受け身が、野球をする上で、ダイビングキャッチをして着地する時に役に立ったりします。ですから、バランスのよい心身を育むためにも、多種のポジションと多種のスポーツを経験することをお勧めしています。

子ども時代に重要なトレーニング

子どもの頃に行うトレーニングで有効なものは、外遊びです。子どもだけでする外遊びは、自分たちだけで何が起きるか想像し、ルールを決めていきます。今考えると、イメージトレーニングをしていたのと同じで、想像力が養われていたのです。野球は「間」のあるスポーツ。その間に、次に起こることをイメージし、相手の動きに対して自分はどのように動けばよいのか準備しておくことができます。そのシミュレーションを的確なものにするには、想像力が必要です。想像力を養うには、テレビゲームよりも盤ゲーム、アニメーションよりも漫画、漫画よりも小説がいいでしょう。私の子どもの頃には、テレビゲームがさほど普及していなかったので、想像力が養えたのだと思っています。

よい身体を作る秘訣

Img_imazeki3食事は、調理師だった父が毎日、栄養のバランスを考えた料理を作ってくれました。愛情のこもった料理はとてもおいしく、たくさん食べることができました。小学校高学年になると、毎食、ご飯をどんぶりで3杯食べていたほどです。それと、牛乳を食事の時も喉が渇いた時にも水代わりに飲んでいたので、1日に2リットルは飲んでいました。そのおかげか小学校を卒業する時は、身長は170センチになっていました。野球をしている子どもたちを見ていると、レギュラー争いを勝ち抜いていくのは、よく食べる選手たちです。食べることに加えて、睡眠も大切です。私の小学生時代の消灯は21時。父が市場に行くこともあり、6時に起床して、家族全員で朝食を食べるのが日課でした。よく寝て、よく食べて、よく動く。これが身体を大きく強くするために何よりも重要なことなのです。

何ものにも変えられない両親の愛情

高校時代、私の野球人生において大きな出来事がありました。同級生からいじめを受け、高校を中退したのです。野球の道具がドブに捨てられ、学校では完全に無視をされました。半分ノイローゼになり、学校に行かなくなりました。でも両親はそんな私に、無理に学校へ行けとも言わず、無理に話を聞き出そうともしませんでした。また、私の気持ちを汲み、自分たち両親よりも第三者のほうが話しやすいのではないかと、叔父と話をさせてくれました。このようにあえて距離を置くことも、私への愛情だったのです。高校を辞めた時、プロ野球選手になると宣言しました。周りの人たちは皆、話半分に聞いていましたが、両親だけは応援してくれました。だから、いじめから立ち直り、新しい道へ進むことができたのです。「現実を見ろ」という言葉は一切言わず、「お前ならできる」と言ってくれた父に感謝しています。

一生感動、一生勉強

どのような状況でも野球を辞めずに続けてきましたが、野球をやってよかったと思うことは、忍耐力がつき、礼儀作法が身についたことです。そして、何より勉強をする習慣がつきました。机に向かってするものだけが勉強ではありません。力の無かった私は、相手打者を研究し、自分がどう投げれば打者が嫌がるかを考えました。私の座右の銘は「一生感動、一生勉強」。大好きな相田みつをさんの詩「一生感動、一生青春」を拝借したのですが、自分が感動をしなければ、相手を感動させることはできません。また、人間は勉強しなければ、成長が止まります。私にとって一生勉強を続けること、それが野球を続けることでもあるのです。こうして勉強をする習慣がついたことが、野球をやってきて得た最大の財産です。

夢を明確することがプロ野球選手への道

プロ野球選手になるという宣言をしてからは「なりたい」「なれたらいい」とは言わず、本気で「なる」と考えていました。そうすると、目標が明確になり練習の質が上がり、レベルアップしていくことができました。野球教室では、子どもたちに技術だけを教えるのではなく、夢を実現するためにはどうすればよいかという話をします。夢を明確にすると、自分がやるべきことが分かり目標が細分化されます。漠然とした目標に向かっていくことは、途中で迷いが生じてしまいます。しかし、細分化された目標を1つ1つ達成していくことで、夢への階段を上っていくことになるのです。それが、プロ野球選手になる近道だと思います。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

2012年4月25日 (水)

第6回 元巨人・篠塚和典さん

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銚子商(千葉) → 巨人 → 巨人コーチ

銚子商業2年生時に春夏と甲子園に三塁手として連続出場。夏の甲子園大会では全国制覇に貢献し、75年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。巧みなバットコントロールと華麗な守備で鳴らし、芸術的と言われるプレーでシーズン打率3割以上を5年連続を含め7回記録。81年、わずか1厘差で首位打者のタイトルを逃すも、現役最高の打率を記録し、84年には自身初の首位打者を獲得。87年に2度目の首位打者を獲得し、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。94年の引退後は、巨人の一軍打撃コーチ、一軍守備走塁コーチ、総合コーチを歴任。06年に再び守備走塁コーチに就任し、07年から10年まで打撃コーチを歴任。また09年WBC日本代表の打撃コーチ兼任、12年には韓国プロ野球・LGツインズの臨時コーチを歴任。現在は、野球解説者として活躍中。

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銚子商業2年生時に春夏連続で甲子園に出場し、夏の甲子園大会では圧倒的な強さで優勝。その後、野球生命が危ぶまれるほどの病気を克服し、長島監督の強い推薦で巨人にドラフト1位で入団。芸術的な流し打ちと広角打法、そして華麗なグラブさばきで多くのファンを魅了し野球選手たちの憧れとなりました。甲子園優勝、巨人時代は2度の首位打者を獲得した篠塚さんの子どもの頃のエピソードとともに、今、野球を頑張る選手たちに向けてお話をいただきました。


野球の街で育った少年時代

Img_shinozuka400300_24歳の頃、兄に連れられ草野球を観に行ったのがきっかけで、野球に興味を持ち始めました。もちろん4歳で大人と一緒に野球はできないので、最初はボール拾いから。この頃、草野球がとても流行っていて、どこの広場に行っても野球をやっているような環境でした。

特に私の育った銚子の街は本当に野球が盛んで、誰しも野球が大好き。ですからこんな環境の中で、野球以外のスポーツをすることは考えられなかったですし、家族でもお父さんお兄さんがやっているから、当然下の子どもたちも野球をするものだと決まっていました。

それから、銚子の魚をたくさん食べて育ったのがよかったのだと思うのですが、骨太な体になりました。そういう銚子の街そのものが「英才教育」だと私はよく言っているんですよ。

技術を上げる手段と長続きする秘訣

小学校にも野球部はあったのですが、4年生の3学期にならないと入部できませんでした。だからそれまでは地区の少年野球チームをいくつか掛け持ちして、休み無しで毎日野球をやっていましたね。とにかく野球が好きでしたし、誰かに見せるということも技術を上げる一つの手段だと思ったので、それは小さい時から意識をしていました。そしてチームに入ることによって周りの人に負けたくないという気持ちでがんばれますし、私は大人や先輩のプレイを見て「カッコイイな」と思ったものはマネをするようにしていました。学ぶということはマネをすることだと思うんです。ですから選手のみんなも、好きなプロ野球選手をみつけてマネをしてみてください。ただしアメリカの選手は日本人とは骨格が違うのでマネはできません。日本の選手をマネしてみてください。

それから、野球を長く続けて行くには、自分が思うように投げたり打ったりできることが大事だと思います。それができないと楽しくないじゃないですか。私は野球を楽しいと感じる時期がかなり早かったので、こんなに長続きしたのでしょうね。

プロ野球選手への第一歩

Img_shinozuka400300_1野球部に入って1年目、小学5年生の時に私の人生にとって大きな出来事が起こりました。私がプロ野球選手を目指すことになったきっかけです。それは当時の野球部の監督に「おまえはプロ野球選手になれる」と言われたこと。そこから意識が大きく変わりました。

それまではプロ野球選手になることなんてまったく考えてもいなくて、ただ野球が好きだからやっていたのですが、その言葉を聞いてからというもの自分はプロ野球選手になるんだという意識を持って野球をするようになりました。監督だけではなく、周りの大人から褒められることも素直に嬉しかったですね。

ですから子どもにとって、大人の言葉って大事だなあと思いますよ。その言葉ですっかりその気になったのですから。でもそこで安心すると成長は止まってしまいます。大人のパワーやきれいな打ち方、投げ方を見て、よりいっそう吸収しようと考えるようになりました。

例えば速いボールを打つためのタイミングの取り方は、大人に混じってやることによって自然に身についていきました。それはピッチャーとバッターを同時に見るのですが、きちんとタイミングの合っている人は、余分な動きが入らず打つ準備がきちんとできているんです。そういうことを子どもの頃から観察して、自分にも取り入れようとしていましたね。

それに「どうすればもっとヒットが打てるか」ということも考えて、土手に向かってノックをする練習をしました。子どもの時は「一人でできる練習」くらいに考えていたのですが、のちのちこれがバッティングに活かされていると気づきました。もちろん教わることも大事なのですが、自分の目で見て感じ工夫をして練習をすることは、上達も早いですし身についた後も忘れないと思います。

夢の実現は自分を信じること

プロ野球選手になるという目標ができてからは、野球の上手さで目立たなくてはいけないと思いました。そして甲子園に出てプロのスカウトに認めてもらうことが必要だと思い、甲子園に行ける学校を選びました。結果的には甲子園に出場し優勝。ここまで夢に向かって上ってこられたのは「自分が1番上手いんだ」と思ってやること、でもそれはおごりではなくそういう意識を持ってやるからこそ、その思いに相応する努力を続けてこられたのだと思います。みなさんもまずは、自分を信じてみてください。そして信じることをあきらめず続けてください。

これからの野球を担う少年少女へ

「捕って投げる」ことに自信を持ってほしいと思います。それは「守備」に自信を持つということです。これからの野球は守れないとゲームに出る確率が低くなるでしょうね。バッティングは調子が悪い時があってもその時どきで直していけば、いつでも上手になる可能性があるんです。でも守備はある程度自信を持ってやらないと上手にならないし、スランプがないのでその時どきに直す必要がないんです。ですから早いうちに守備が上手くなって自信をつけるようにと、小学生には言っているんです。

そのためには、自分がどのようにボールを捕ってどのような姿勢で投げているのかを知る必要があるので、守備をしている姿をビデオに取ってもらって見るといいですね。そこでお父さんお母さんと一緒に「肘が下がっているな」とか話し合って、またしばらくしたら撮って見てみる、というのを繰り返すといいでしょう。これは守備だけではなく、バッティングにも効果があると思います。できるだけ早く癖のないきれいなフォームを身につけることが大事なので今すぐにでも取り組んでほしいですし、小学校低学年だからまだ早いと思わず、小さい頃からぜひ始めてください。指導者も小学1年生からきちんと見て教えるというシステムを作ってほしいと思います。それが先ほどお話した野球が楽しくなるために必要なことです。

小さい時から上手くなろうという意識を持つ、それによってセンスが磨かれますから誰にでもチャンスはありますよ!まずは基本のキャッチボールが上手くできるようになってください!今、できなくてもキャッチボールが上手くなれば、バッティングや守備も上達しますよ。

【取材・文】金木有香
【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

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