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2017年1月25日 (水)

第15回 元阪神・藤田太陽さん

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新屋高 → 川鉄千葉 → 阪神 → 西武 → ヤクルト

高校卒業後、社会人野球・川崎製鉄千葉に入社。2年目の99年に頭角を現し、第14回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、大会では最優秀防御率賞に輝き日本の3位入賞に貢献。00年のドラフト会議で阪神を逆指名しての1位指名で入団。02年にプロ初勝利初完投を記録し、03年から開幕ローテーション入り。09年に西武へ移籍し中継ぎ、抑えとして西武リリーフ投手陣の中心として活躍。13年、東京ヤクルトスワローズに移籍するも、同年現役引退。15年、富山県のクラブチーム・ロキテクノベースボールクラブで投手兼任コーチとして現役復帰。


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厳しくも無条件に応援し、味方になってくれる父と歩みながら、常に自分というものを見つめ、自分に最適な道を歩こうとしてきた藤田太陽さん。背伸びをしたくなる時こそ、しっかりと地に足をつけて粘り強く戦ってきたからこそつかんだドラフト1位の座。体が小さい、スムーズに習得できない、思うようにプレーできない……と、野球が大好きだけど悩みを持つすべての人へ送る、貴重なサクセスストーリーをお聞きしました。


大好きだった柔道を辞めて野球選手になった日

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小学3年生までは、柔道とレスリングに夢中でした。憧れの人は柔道でロサンゼルスオリンピック、金メダリストの山下泰裕さん。夢はオリンピックに出て柔道で金メダルを獲ること。そんな柔道一直線の私に、ある時野球好きの父から「野球をやってみないか」という相談があったのです。正直、興味があるのは柔道。父の熱烈でしつこい言葉攻めに「とりあえず練習だけでも行ってみるか」という気軽な気持ちで小学校の野球チームに参加してみることにしました。

見様見真似で動いてみたところ、思ったよりも良い球が投げられるし良いバッティングが出来る事が判明。柔道のおかげなのか、関節が柔らかく肩が強かったせいなのか、抵抗なく野球というスポーツを楽しいと感じるようになっていきました。そんな私の様子を見てか、父から要望があったからか、チームの監督から「関節の柔らかさと肩の強さを柔道より野球で生かしたほうが良い」と言われ、半ば強引に私の野球人生がスタートした瞬間でした。

最強のコーチであり最大のサポーターになってくれた父

小学校の学童野球チームは物凄く強く、チームの中心選手にはなれませんでした。肩が強いという事でポジションはセンターかライト、打順は6番か7番。体も小さく6年生で155cmくらいでした。そんな状況ですからプロ野球選手になりたいという現実離れした思いを持つ事は無く、将来は消防士になりたいと思っていました。しかし、父だけは違いました。いつどんな時も私の事を信じ「お前は絶対プロ野球選手になる!」と言って、毎日休まず練習に付き合ってくれました。

朝5時半に起きて8キロを走る。朝食を山盛り食べた後は学校そして練習。帰宅したら素振りとシャドースロー、もも上げ2000回。父の仕事が終わり帰宅すると、夜の練習をするという毎日。バッティングセンターにも週4で通っていました。父との練習はきつかったのですが、足がさほど速くないと思われていた姉が、父の練習メニューをこなしてインターハイで記録を作るという光景を目の当たりにしていたので、自分もやればできるのではないかという思いもあったのです。

母の存在があったからこそアスリートとして成長できた

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母親は食事の面で徹底的にサポートしてくれました。冷凍食品やレトルトなどは一切使わず、とにかく手作りの物を食べさせてくれた。おやつに至るまでカルシウムやタンパク質補給の為に、サンマの骨を焼いた物や干し芋で、スナック菓子や炭酸ジュースは一切口にしませんでした。幼少期から息子をアスリートにする事を意識し、体の成長と共にパフォーマンスが飛躍的に伸びて行ったのも、母の存在無くしては語れない本当に大きな支えでした。

一度は諦めかけた野球を続けた理由

地元中学校の野球部に入ったのですが、練習はきついし先輩後輩の関係が異常なまでに理不尽に厳しく、1年生の時点で即刻辞めたいと思うようになりました。父に「野球部を辞めたいんだけど」と言ってみると、あっさり「そうか、、」と。てっきり「もっと頑張れ」と言われると思っていたので、すっかり拍子抜けしてしまいました。心の中のモヤモヤ度数100%状態で、2日間練習を休みました。すると不思議な事に、ポッカリと心に穴が空いている事に気付く。「その穴を埋めるのは野球から逃げるのではなく、野球に立ち向かうしかない!!」と、もう一度野球部に戻ることを決意しました。

こうして戻れたのは、父が無理に引き止めなかった事と、チームメイトが強力なライバルとして常に前にいるような状況で、簡単にレギュラーになれなかったからです。自分は器用なタイプではありません。教えてもらった事を何度も繰り返しやってみて、ようやく掴む事が出来ると思っています。今現在、中学生を教えていて思う事があります。不器用な選手ほど、粘り強く努力し続けるタイプが多く、大成するまで時間は掛かっても、大きく育つ選手が多いのではないかと感じる事があります。自分があの時諦めずに野球を続けてこられた様に、本人が諦めるまでは、とことん一緒に良い所を見つけてあげたいと考えています。

自分の野球をするために選んだ学校

高校進学にあたり、秋田県内の甲子園へ行けそうな公立学校へ自己推薦で応募したのですが、すべて落ちてしまいました。ところが、状況が一変。県外・県内の私立強豪校2校から特待生の話が来たのです。しかも、野手ではなくピッチャーとして。甲子園に行ける可能性のある強い学校からの誘いに、もう中3の私の心の中はお祭り状態!!しかし、ふと冷静に考えてみると、我こそはと凄い選手が集まってくるチームである。自分は本当にやって行けるのだろうか、身の丈に合っていないのではないか、と考えるようになりました。

そんな中、とある高校の監督が直々に会いに来てくれました。甲子園に出場した事が無いどころか、秋田県大会で1回戦も勝った事が無い高校です。しかし、監督は私に力強くこう言いました。「3年後に君の力で甲子園へ連れて行ってくれないか」。私はその監督の一点の曇りも無い眼光と人柄に惹かれ、「強豪校を倒してやろう!」「強いチームに行ってレールの上を走るより、自分で道を切り開いてやろう!」と心が決まりました。そうして入学したのが、我が母校の秋田県立新屋高校。「自分が甲子園に連れて行くんだ!歴史を創る!」と心が躍っていたのを、つい昨日の事の様に覚えています。

父が信じてやまなかったプロの夢は、ドラフト1位になって叶えた

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最後まで甲子園出場の夢は諦めていませんでしたが、しかし3年生の夏は県大会2回戦で敗退。悔しくて泣き崩れましたが。しかし私はこの学校を選んで、この仲間と野球が出来た事に、一切の悔いはありませんでした。卒業後は幾つかの進路があったのですが、社会人野球の道を選び川崎製鉄千葉(現:JFE東日本)に入部。最大の理由の一つとして、オリンピックに出たいという思いがありました。

当時は、プロ野球選手はオリンピックの代表選手にはなれなかった時代です。社会人2年目には日本代表入り、3年目にはいよいよシドニーオリンピック。代表合宿にも召集され、意気揚々としていた矢先に背中の肉離れと右肘の故障。懸命のリハビリも間に合わず、オリンピック本選で投げるという夢は叶いませんでした。しかしながらその年のドラフト会議では、阪神タイガースを逆指名で1位入団。幼少期に柔道を辞め、半ば強引に野球の道に進んだ日から、父と私の努力の物語はドラフト1位という形で実を結びました。

野球をしている子供たちへ

野球を人生の全てにする必要はなく、一つのフック、つまり取っ掛かりになればいいと思います。野球を通じて、野球をしたらこそ、自分はこの様に選択肢を増やす事が出来た。という風に。また、自分で歩く道は自分で創って欲しいと思います。例えば、バッティングで「こういうふうに飛ばすように」と教えられたとしても、もし上手く飛ばせないのであれば、自分に合う方法を探し、試行錯誤の中でやってみれば良いのです。そちらの方が自分には合っているかもしれないから。不器用な自分がプロ野球選手になれたのは、自分の力量に嘘をつかなかったからだと思っています。

自分自身をしっかり見つめて知ること。足りない部分は時間を要しても必ず埋めて行く事。過大評価はせずに、その上で粘り強く努力をする事が大事です。自分を信じて、自分を褒めて、自分を大切に育ててみてください。


【取材・文】金木有香

【運営】ベースボールコミュニケーション(BBC)

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